全体的考察〜自分自身との比較と今後の展望〜

 インタビューを行って感じたことは、共感だった。幼少時代に行きたくもない集会に行かされていたこと、ゴールデンタイムにTVを思う存分観たかったこと、伝道者になること・献身する(正式な信者になる)ことに何とも言えない抵抗を感じていたこと、体罰を受けていたこと、未信者の父がおりその存在が大きかったことなど、私との共通点が多数あった。

 JWに対して、漠然とした「違和感」を感じていた点も共通する。はっきりと教義や組織に対して疑問を抱いていたのは、一人だけだったように思う。このようなJWそのものに対してはっきりと疑問を持てないのが、2世の弱点であると思う。JWという価値観の中で育ち、自己を見つめ直す機会が少ないことが影響していると考える。

 人間関係は、JW2世問題を考える上で、大きな要因の一つである。大泉(1988)は、会衆は一つのコミュニティであると述べている。そうした人間関係を壊したくないという自然な感情が、JWに対して疑問を持たせない一つの要因ではないだろうか。

 また、JWとは別の人間関係を持つことが、JWを離れる背景にある。高校や大学、職場、結婚関係など、JWとは違うコミュニティのメンバーになることが、JWから離れる背景として考えられる。インタビューの結果もそれを裏付けている。

 その他、JWをやめる背景になったものは、さまざまだったが、私を含め共通して言えるのは、物理的に集会へ出席する回数が減ったことである。集会に行かなくなったことが背景ではなく、むしろ「集会に行かなければならない」というビリーフ(思い込み)が崩れて表面化したと言った方が良いだろう(国分,1991)。新フロイト派のカレン・ホーナイ風に言うなら「べき」の専制から解放されつつあった、と言うべきだろうか(ホーナイ,1986)。その後、集会だけでなく様々な場面でのJWの教えである「べき」が崩れていったと考えられる。

 この過程は非常に辛いものであることは、私は身をもって知っている。今まで与えられてきた価値観やアイデンティティが崩れることであるからだ。インタビューした4人全員が、程度や質の差こそあれ、この苦しみを味わっている。その状態から、今度は一から新しいアイデンティティを構築していく必要性に迫られる。今まで「悪」とされてきた一般社会で生きて行かざるを得ない元信者にとっては、不可欠な作業である。2世の場合、これはやっかいな仕事になる。「JWに入る前の自分」「取り戻すべき自分」が存在しないからである。しかし、全くのゼロからのスタートではないと思う。少なくとも、JWをやめた自分というアイデンティティは存在しているからだ。

 この時期のキーワードは、「相対化」であると思う。今まで絶対的だったJWの教えから解放されるためには、JWを相対化させる必要がある。「JWも数ある宗教の一つである」、「JWも所詮は人間の集まりだ」、などと思うことである。そしてさらに、自分の価値観でJWの評価して良い点、許せない点などを分けて再評価出来る余裕を持つ必要がある。

 JWの相対化には、JWを様々な角度から見た情報が必要である。情報が不足していたユカさんが10年近くもJWを相対化出来なかったことからも、情報の重要性が分かる。JWを離れた2世の書いた本やインターネット上の情報は、この点で有意義である。牧師や神学者が多くの文献を出しているが、それらは一方的にJWを批判しているに過ぎず、JW2世の「本音」の部分を扱い切れていないのが実状であると思う。彼らの語る客観的事実に関する情報も必要になる時期があるのだが、JWを相対化できていない時期には抵抗が大きすぎると思う。

 元メンバーの書いた本だからと言って、まったく抵抗なく読めるわけではない。JWの中では、JWを離れていった人たちとの接触を禁じているからである。とりわけ、批判的な活動をしている人を「背教者」と呼び、それらの人の文書を読んだりすることに過敏症とも言えるほど厳しく禁じている。まさに、情報コントロールである。JWをまだ相対化出来ない時期にこれらの人たちが書いた本を読むことは、非常に勇気のいることだと思う。しかし、「JWの相対化」にたどり着くためには、通らなければならない道であると思う。

 JWを相対化出来たとしても、まだ問題が解決するわけではない。JWの教えに翻弄された人生を取り返すことは出来ないし、JWであった過去をぬぐい去ることは不可能であるからだ。以前、ある女性は夫にこう、言われたそうだ。「JWだったことを恥じるよりも、JWをやめたことに誇りを持てば良いんじゃない?」彼女は目から鱗が落ちる思いがしたと言う。私にとっても、大きな発想の転換に気づかせられる言葉だった。JWだった過去は変えようがない。それは事実である。その事実を認めた上で、新しい自分の人生を作っていけば良い。そう、感じた。現に、4人の方は、JWではない新しいアイデンティティを作り上げているように思う。

 JW2世をアダルト・チルドレンとして捉えることも出来ると思う。斉藤(1996)によれば、アダルト・チルドレンとは「親との関係で何らかのトラウマを負ったと考えている成人」と定義できる。トラウマと言うほど、強烈ではないにしても、ハルマゲドンの夢がフラッシュバックしたり、体罰を思い出して悩んでいるJW2世は多いと思う。

 アダルト・チルドレンと捉えるとき、大事な点は、それが親との関係で問題を抱えているということだと思う。親がJWでなければ、自分はJW2世とはならない。つまり、2世問題とは、宗教の問題としてよりも親との問題として見ることが出来るのである。青年期に抱える親からの自立という問題に宗教が複雑に絡み合った形と言った方が適切だろう。

 この点を詳しく述べる。被験者が少ないため一般化することは難しいが、JW2世がJWから離れる過程は、

JWとしての同一性早期達成→JWへの違和感→JWの相対化→アイデンティティの崩壊→アイデンティティの再構築→JWの再評価

と、説明することが出来る。この過程で、「JW」という語を「親の価値観」に代えて、一般化してみると、

親の価値観による同一性早期達成→親の価値観への違和感→親の価値観の相対化→アイデンティティの崩壊→アイデンティティの再構築→親の価値観の再評価

となる。このような青年期を経験する人は多いのではないかと思う。JW2世問題を宗教問題として捉えるより、このような「親の価値観との摩擦問題」と捉えた方がずっとわかりやすくなる。ここにJW特有の「組織」や「教義」が絡んでくるため、より複雑になっているのであると思う。

 アダルト・チルドレンの回復の方法として、自助グループでの対話などがあるが、その目的は、人間関係の再構築と、新しい「自己」の創造であると言う(斉藤,1996)。JW2世も、一般社会での人間関係を構築し、新しいアイデンティティを創造していくことが、親の価値観からの解放、つまり2世問題から解放されるための方法だと思う。

 インターネットの世界では、JW2世専用または2世が主になっている電子掲示板がいくつも設置されている。普通、JW2世は、自分がJWであること(であったこと)を口にしたがらない。分かってもらえないのではないか、という不安が付きまとうからである。JWが原因でいじめられたり、からかわれたりした経験を持つ人は特にそうである。しかし、掲示板の中でJW2世がのびのびと語ることが出来る。

 それは、同じ境遇で育った人たちなら、自分のことが分かってもらえる・共感してもらえるだろう、という期待や安心感があるからではないだろうか。JW2世であったことをストレートに悩みとして抱いている人から、普段何気なく使う言葉にJW用語が見え隠れしてしまう人まで、インターネットへの発言を通してJW的な過去を客観視できることは有意義であると思う。これが、「自助グループ」的な役割を果たしていると言えると考える。

 しかし、インターネットは通信手段の一つに過ぎない。やはり、直接会って話し合うほうが、もっと意味があると思う。各地でオフ会(インターネットで知り合った仲間で実際に集まること)が開催されているのはそのためであると思う。実際に会って話し合うことで、自分と同じ境遇にいた人がいることを実感でき、自分の中にある2世問題に向かい合えるのだと思う。

 今回、私は卒業論文のためのインタビューという形を通して、こういった体験が出来たと思う。彼らの過去の体験を聞くことによって、私の過去を相対化して見ることが出来るようになったと思う。

 私は本論文を通して、「自分」というものを見つめ直すことが出来たと思う。そもそも私の学生生活は、自分を見つめ直し、JWという親の価値観を相対化させるためのものであったと考える。ゼミや自主活動などを通して、物事を客観的に見て語る能力を養うことが出来、「エホバの証人の子供たちのHome Page」に出会って、疑問が表面化した。その後は、新しいアイデンティティを如何にして獲得するかの模索だった。いや、現在も模索中である。

 今後は社会の中で、また自分のホームページを通して、自分を見つめ、アイデンティティを獲得していくことになると思う。本論文がその足がかりとなれば幸いである。

 JW2世に限らず、親の価値観に縛られ、私と同じように悩んでいる方も多いと思う。その方たちが、親の価値観という存在を相対化し、自由に「自分らしく」生きていけるようになることを願ってやまない。

 

 

引用文献・Home Page

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 ウィリアム・ウッド 1993 エホバの証人−マインド・コントロールの実態 三一書房

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 「ものみの塔」誌 2000年1月1日号 ものみの塔聖書冊子協会

 生駒孝彰 1981 アメリカ生まれのキリスト教 旺史社

 金沢司 1987a 欠陥翻訳 北海道広島会衆(絶版のため下記のURL参照)

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    http://www.stopover.org/index.shtml

 エホバの証人情報センター http://www.jwic.com/home._j.htm

 服部雄一 1998 エホバの証人の児童虐待 狭山心理相談室(未発表)

 秋本弘毅 1998 エホバの証人の子どもたち−信仰の子らが語る、本当の姿 わらび書房

  エホバの証人の子供たちのHome page http://www.alles.or.jp/~philip/jw%20child.html

 福島章 1992 青年期の心−精神医学から見た若者 講談社現代新書

 鑪幹八郎 1990 アイデンティティの心理学 講談社現代新書

 ブライアン・ウィルソン/鶴岡賀雄訳 1978 日本における「エホバの証人」の発展と親族関係の諸問題 国際宗教ニューズ1978 Pp.41-61

 中澤啓介 2000 パンドラの塔〜ものみの塔に幽閉された人々のために〜 新世界訳研究会

 スティーブン・ハッサン/浅見定雄訳 1993 マインド・コントロールの恐怖 恒友出版

 浅見定雄 1994 新宗教と日本人 晩聲社

 国分康孝 1991  <自己発見>の心理学 講談社現代新書

 カレン・ホーナイ/対馬正監修/藤沢みほ子・対馬ユキ子訳 1986 自己実現の闘い−神経症と人間的成長− アカデミア出版会

 斉藤学 1996 アダルト・チルドレンと家族−心のなかの子どもを癒す 学陽書房

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