誕生前後

 1978年、日本にて父マサツグ・母みーこの長男として生誕。
 当然、この頃の記憶はないが、大変な難産であったことをよく聞かされた。あと、気になるのは、母がいつバプったのか、という時期だが、この3年前の1975年らしい。あの1975年である。全世界のJWがハルマゲドン到来を本気で信じていた年だ。当時の熱狂的とも言えるハルマゲドン危機感が迫る中、母は献身したのだ。後に彼女は「確かに75年にバプテスマを受けたけれども、本当にハルマゲドンが起こるとは思っていなかった。」と語るが、本当にそうなのだろうか。組織の教義変更に自分の信仰を合わせ、そう思い込んでいるのかも知れない。
 さて、未信者の父は、待望の男子誕生とあって、かなり喜んだようだ。名付け親も父である。ちなみに私の本名は、父が当時大ファンだった野球選手の名にちなんでいるそうだ。私の5歳上には姉がいるのだが、姉よりも私を溺愛したという。

幼稚園入園から

 4歳児学級から近所の私立幼稚園に通う。物心はこのあたりから。厳しい会衆あるいは時代では、幼稚園は世の影響が大きい、などとささやかれ、保育園・幼稚園に通わないJW2もいたそうだが、私は違った。
 思い起こせば、幼稚園時代は泣いてばかりいたような気がする。まず、朝、母親との別れで泣き、転んでは泣き、弁当を残しては泣き、いじけては泣き、かなり担任の先生に迷惑をかける園児だったと思う。しかし、朝の別れに慣れてくると母の都合、つまり彼女が野外奉仕に出かける時間に合わせて私を幼稚園に送り届けるようになった。園児の登園してくる時刻にはあまりにも早過ぎ、自動ドアの正面玄関も手動で開けていた記憶がある。当然、他の園児は誰一人来ておらず、一人ぼっちで朝の数十分を過ごしていた。教室ではブロック遊び、ホール(体育館のような場所)ではキャスターのついたおもちゃで、図書室では絵本を読み、時間をつぶしていた。こんな朝の時間に内向的な性格が形成されたのかもしれない。
 集会にも当然出席していた。大嫌いだった。行っても退屈で楽しいことは何一つ無いし、少しでもぐずれば、即懲らしめ(ムチ)である。当然と言えば当然だ。よくあったパターンは、集会中ぐずったり泣いたりすると、口をふさがれ王国会館のトイレに連れて行かれる。その中で懲らしめ第一弾として素手で裸の尻を叩かれる。泣き止むまで叩く、と言われるので必死に泣くのをこらえていた。しかし、泣き止もうとすればするほど、喉の奥に何か大きな塊のような存在を感じ、それを飲み込もうと必死になっていた記憶が驚くほど鮮明に残っている。帰宅すると、懲らしめ第二弾が待っている。皮ベルトかスリッパでやはり裸の尻を叩かれる。ただ、ムチを使用されたことは回数としてはごく少ない。一度あの痛みを知ってしまった子どもは、「帰ったら懲らしめだね。」という親の一言で素直で従順な子どもになってしまうものなのだ。こういった経験の無いジャーナリスト達は、JWの躾方法として身体的虐待が重大な問題、と述べるが、そう単純なものではなく、身体的虐待を前提に置いた精神的虐待、といった構図があるように思う。
 時々だが、母の野外奉仕にも連れて行かされた。ここでも、疲れた、喉が渇いたなどとぐずると帰宅後の懲らしめが待っていた。一度、奉仕中ぐずった私を母が人気のない空き地に引っ張り、そこで懲らしめ(素手、裸の尻)を受けたことがある。その時、彼女が泣きながら私を叩いていたのを覚えている。歩く、ということが極端に嫌いになった。

小学生

 実は、小学校低学年の記憶が曖昧である。学生の頃、無理矢理この頃の記憶を書いたのだが、どうもつじつまが合わない。当時の担任の先生の名前も思い出せない。私の解離性同一性障害(多重人格症)と関係があるかもしれない。
 実家に小学1年生当時の学級写真が残っていた。今では考えられないくらい細い体格の私が写っている。ところが、小学3年生の学級写真を見ると、現在の私と変らない丸い体格の私になっている。この変化は何なのだろうか。
高学年の頃から記憶がはっきりしてくる。集会嫌いは相変わらずだった。仮病やら熟睡を装ったりしてよく集会をサボった。私は紅茶が好きなのだが、その香りを嗅ぐと日曜の昼時を思い出す。嫌々ながら出席した午前中の集会が終わり、トーストに目玉焼き、少しの惣菜、それに紅茶という昼食だった。何とかして午後の奉仕はサボろうと考えながら食事をしていた。よく使った手は、私の家事分担になっていた風呂掃除が終わらないと言い張って母と姉が出かけるまでやりすごすというものだった。
 学校では、自分がJW2であることを必死で隠していた。JW2なら誰でもやってしまう「二重生活」だ。会衆では親に従順なJW2を装い、学校ではごく普通の優秀な小学生を装った。どちらも本当の自分ではなかった気がする。いや、本当の自分なんて今も無いのかもしれない。それでも、学校でJW2であることがばれることが幾度かあった。家庭訪問、大会へ出席するための事欠の報告、運動会での騎馬戦拒否証言などである。
 騎馬戦については、いろいろと思い出すことがある。5年生のとき、頑固なベテラン先生の担任になかなか拒否することを言い出せず、運動会直前になってようやくその旨を担任に言った。すると「戦うことが駄目な宗教なんだろ。だったら騎手ではなくて馬をやれ。」というイイカゲンな対応だった。当日直前なのだから無理も無いだろう。今度は、そのことを母に言うことが出来ずに、運動会当日を迎えてしまう。ビクビクした気持ちで騎馬戦を終えると、その様子を見ていた母(午前中は集会に出席し、午後から参観していた)にこっぴどく叱られた。6年生の運動会でも騎馬戦はあったのだが、二の舞にならぬよう、母が年度最初の家庭訪問で担任(5年生のときとは変っていた。所謂熱血タイプ)に釘を挿していた。騎馬戦練習開始の授業で、いきなり「じゃ、組を決めるけど、金矢君は抜かして。」と言われた。家庭訪問が終わった後、母が「良い先生ねぇ。」と言っていた意味が分かった。当然、クラスメートからは「なんで?」という質問攻めにあうが、「ちょっと理由が…。」と濁すので精一杯だった。
 それから思い出されるのは、あまり仲の良くない友達とケンカになったことがあった。そのことが、金矢が彼をいじめた、と熱血担任に伝わってしまったらしい。「お前は、神様を信じてるんだろ?そんな奴がイジメなんかするな!」と一方的に叱られた。神様を信じているのは自分ではなく母親なのに何故こんな叱られ方をするのだろう、とかなりショックだった。

中学生

 1,2年生。特記すべき事項なし。
3年生の時、クラスに転入生が来た。その転入生は、幼い頃同じ会衆だったK兄弟だった。幼馴染とも言える同胞が帰ってきたという喜びを感じるべきなのだろうが、その時私は全く違った感情を抱いた。実は1,2年生のとき、柔道の授業があり隠れて受けてしまっていた。体育の教科担任が怖くてなかなか言い出せなかったのだ。当然、3年生でも柔道の授業はある。困ったことになった。K兄弟の存在のため、1,2年生のときと同じく会衆に隠れて柔道をすることは出来ない。しかし、彼と一緒に拒否の旨の証言をしたとしても「お前は去年・一昨年と、柔道やっていたじゃないか。どうして今年はできないのか。」と問われることになる。どうしようもなかった。誰にも相談できず、柔道の授業がある冬まで悶々と悩み続ける。こっそり、何とかしてくれ!とエホバに祈ったりしていた。
 冬になり奇跡が起きた。体育担任は、教職体(教職員体育大会)サッカーチームに所属しており、かなりのストライカーだったのだが、ある試合で彼は脚に大怪我をする。「この脚では柔道の指導は出来ない。代替としてバスケットボールの授業とする。」と言われた。私は密かに「エホバへの祈りが通じた!エホバは存在する!」と本気で信じた。今考えると馬鹿げている。全ての人へ平等の愛を注ぐ神であれば、私一人のために先生に大怪我を負わす訳が無い。思えば、これをきっかけに本の少し"霊的成長"を遂げたのではないだろうか。そのすぐ後、神権宣教学校に入校し、伝道者になっている。
 それから、3年生になって初めて部活というものを経験する。合唱部だった。1年生のとき担任だった音楽の先生が、私を含めた男子数人を呼び「今年がコンクールで勝てるチャンスなんだ。だが男声が足りない。頼む。助っ人として入部してくれ。」と土下座までされる。さすがに母が許す訳が無いと思っていたが、あっさりと許可された。学年が一つ下のY兄弟がブラスバンド部で活躍していてもJWとしても立派だったという影響があったのかもしれない(しかし、後に彼も離れることになる)。結局コンクールでは満足のいく結果は残せなかったが、何かに熱中する喜びを味わえた。
 各年度最後のイベントである合唱コンクールでは、1〜3年通して指揮者を務める。そのせいで、卒業式の最後に卒業生全員が歌う合唱の指揮者に抜擢される。それはそれで私の優越感を満たすもので良かったのだが、式次第原稿を見せてもらって驚いた。「校歌斉唱 指揮:卒業生代表・金矢」と書いてあったのだ。校歌を歌えない旨を証言しておらず、1,2年生は口パクでやり過ごし、合唱部に入ってからは発声練習を兼ねてガンガン歌ってしまっていたので、教師陣が知らなくて当然だ。式次第を母に見られる前に手を打たなくては。慌てて卒業式担当の先生に証言をしに行く。「あの・・・。校歌の指揮、出来ません。」合唱部の顧問とは違う音楽の先生は「え?君の腕なら簡単でしょ?」と言った。「そうではなくて・・・宗教上の理由で・・・drftgyふじこlp;::@@ぃおk・・・」とたどたどしい証言をする私を見かねてか、あるいはJW2を指導した経験があるのか、「あーー、分かった。指揮は無しってことにしとく。」と彼は言った。何とか事なきを得た。思えば、これが自分一人で行った最初の証言かも知れない。

高校生

 第一希望だった公立高校受験に失敗し、私立高校に通うことになる。受験失敗について、後に母はこう言った。「あそこの公立高校、成績は良いらしいけど、風紀が悪いらしいわ。きっとエホバのご意志だったのよ。」
 "エホバのご意志"で通うことになった高校は、あまり良い思い出が無い。苦しいだけの勉強の毎日だったし、教師陣はまともな常識を持った人はほとんどいなかった。強いて言えば、まともな教師は二人くらいだった。専ら相談相手は、付属図書館の司書さんだった。彼女はその高校で唯一と言って良いほど常識的な大人で、仕事もできる人だった。司書教諭としての彼女に憧れ、後に学校図書館司書免許を取得する動機付けになった。
 会衆では、献身してはいないが準成員として認められたらしく、音響部門として働いた。マイクや演題の高さ合わせ、実演用セットの準備、音響室でのミキサー操作などを行った。音響部門は、私と同じような2世ばかりだったので、休日には彼らと近くの体育館でバスケをしたり、海辺で焼肉をしたりして遊んだ。
 学業とJW活動の両立の難しさが、「二重生活」を激化させた。

大学生

 1997年当時、協会の提案で大学進学が規制緩和されていたとは言え、会衆内ではまだまだ大学に対して偏見があった。一昔前までは、「高校をでたら、最小限の仕事をしながら多くの時間を伝道活動に注ぐ」という人生が勧められており、大学進学なんて考えられなかったことを思うと、私は非常に恵まれた状況だったと言えるだろう。しかし、浪人をしてまでは大学に行くことには抵抗があり、大学ならどこでもいいから現役で入れるように努力した。
 その努力の成果か、某教員養成系大学に合格した。ただし、親元を離れて通わなければならなくなった。今思えば、これが私の考え方を変える大きな要因になったのだが。寮や下宿は「世」の影響が強いというので、アパートでの一人暮らしをすることになった。引っ越しは、K市M会衆の人たちが手伝ってくれた。非常に温かく迎えてくれた。研究司会者もその会衆の長老ということに取り決められ、M会衆への「移籍」がこともなく進んだ。
 大学1年目の頃は、積極的に集会に出席した。M会衆の雰囲気が温かく感じ、入り込みやすかったし、大学のゼミと集会がぶつかることは無かったからだ。ほとんど、集会、バイト、集会、バイト、集会、深夜までのゼミ、という毎日だった。地元のH会衆に帰るたびに、会衆の雰囲気が暗いことが伝わってきた。そのことを姉に話すと、姉も雰囲気の悪さに気付いているらしく「もう、H会衆には帰って来ない方がいいよ。」と言っていた。一致のうちに歩んでいるはずのクリスチャン会衆が、こうも雰囲気が違うことに疑問を感じ始めた。M会衆に交わりに来た母は「こっちに来ることは、エホバのご意志だったのかもねぇ。」と言っていた。私はそれらの言葉を複雑な思いで聞いた。あれだけ大学進学を否定していた協会のしてきたことを覚えているのだろうか、大学進学が容認されても親元から通うべきだという協会の提案を忘れたのだろうか、と。
 大学生活も2年、3年と過ぎるとゼミと集会の曜日が重なり、集会に出席するのが難しい状況になった。そんな折、学内のサークルの中で知り合った女性と付き合い始めることになる。その頃から、出席が可能な曜日の集会すら行かなくなった。「不道徳」をしているという、「良心の呵責」や強迫観念も感じた。3年生の教育実習をきっかけに全くと言って良いほど、集会には出席しなくなった。
 彼女には、私がJW2であることがすぐにばれてしまった(別に隠すつもりも無かったのだが)。彼女は高校時代にふとしたきっかけで、JWについていろいろと調べたことがあったようだ。また、親がJWの訪問を受けていたことがあるらしく、ある程度の知識があった。私がJW2ということにショックを受けていたようだが、この問題に向かい合ってくれた。私本人はと言うと、逃げ腰で、このままJWとして献身するのか、それとも辞めるのか、「今は考えさせてくれ。」とはぐらかしていた。彼女の言う素朴な質問、「どうしてJWは、お付き合いしちゃいけないの?」などに答えることができない自分がいた。JWについての疑問が一気に吹き出してきたが、まだJWを辞めようということはできなかった。彼女には、いろいろな迷惑をかけてしまっていると思う。付き合い出すとき、全くJW2であることの問題について考えていなかった自分が恥ずかしく思う。
 数え切れない程の衝突やけんかを繰り返しながらも、彼女と付き合い初めてちょうど1年が過ぎようと言う頃(大学4年)、彼女があるURLを持ってきた。どうやら、実家に帰省した時に本屋でメモをとってきたらしい。そのURLこそ、「エホバの証人の子供たちのHome Page」だったのだ。

 私にとっては、とてつもない衝撃だった。
 こんなホームページが存在したのか
 こんなにも私と似たような境遇の人がいるのか
 私と同じ悩みと闘っている人たちがいる
 今まで私はJW側からしかものを考えていなかったのだ

 様々な思いが去来し、気を抜くと涙が目から流れ落ちそうになった。この瞬間を境に、私の意識が変わり始める。
 その日から、「エホバの証人の子供たちのHome Page」を初め、JW関連サイトやJW関連本を読みあさるようになる。そうすることで、少しずつ、JW側からのみではなく、一歩引いた客観的な視点が持てるようになっていったと思う。しかし、今まで(半信半疑ではあるが)信じてきたものが、揺らぎ崩れていく過程は、私にとって非常に辛い経験だった。
 私は当時大学で心理学を専攻していた。この専攻生の特徴として「学生自身が心の底から関心を持ち問題意識として抱いていること」を卒論のテーマにすることになっている。私の場合、JW2として育てられ、そのことに疑問を感じ、ホームページや本をきっかけにそれが表面化し、悩んでいること−これが「問題意識」だった。思い切って指導教官のB助教授に相談してみることにした。
 B先生に打ち明けようと思ったのは、実は以前こんなことを言われたことがあったからだ。
 卒論指導の話し合いにて。
「あなたはお母さんとの関係で何かあるんじゃないですか?まぁ、無理に話せとは言いませんけど、話せるようになったらいつでも話しに来て下さい。」
 B教官は観察眼が鋭いのだ。1,2年生の時のゼミでの私の発言から”何か”を感じていたらしい。その”何か”とは、JWの影響に他ならないが…。
 いざ打ち明けようと思ってはみたものの、どう切り出したら良いものか分からなかった。そこで「エホバの証人の子供たちのHome Page」の表紙をプリントアウトし、それを見せることにした。とても緊張していた。「そんなに深刻に受け止めてくれなかったら、どうしよう…」そんな思いから来る緊張だった。
 そんな心配は無用だった。B先生は本当に真剣に受け止めてくれた。博識なので、エホバの証人についての知識も多少はあったし、もちろん家に伝道者が来たこともあった。話し合いは3時間近くにも及び、とりとめもなく雑然と、JWの教え・子どもの頃の経験・今悩んでいる状況などを吐き出した。それでも、両者ともまだ時間が足りないと感じ、次の話し合いの約束をした。最後に先生が「よく話してくれましたね。緊張したでしょ。」と言った。この言葉が、私の心境を物語っていた。
 それから不定期ではあるが、週に1,2時間ほど、B教官と話し合いの機会を持つようになった。先生もエホバの証人情報センター(JWIC)などのサイトからかなりの情報を調べてくれていた。話し合ううちに、私の抱いている問題が少しずつ漠然としたものから整理されてきた。

 JWの教義や組織に対する疑問・矛盾
 人間関係の摩擦に対しての恐れ
 2世特有の、「求め」のない苦しさ
 今までの価値観が崩れ、新しい価値観を一から作り出す苦労
 アイデンティティの危機……

 B先生は、いろいろな提案をしてくれた。彼女との関係を大事にして話し合うこと、「新世界訳」ではない聖書を読むこと、初代会長ラッセルの著書を読んでみることなどである。彼女のことは別にしても、いまいち気の進まない、あるいは不可能な提案が多かった。しかし、
「お父さんと話し合ってみたら?お母さんとお姉さん抜きで。」という提案をしてくれた。
「あなたは今までJW側からしかお父さんを見ていなかったんじゃありませんか?」
 私は、はっとした。確かにそうかも知れない。話し合ってみる必要があるかも…そう思った。
 B先生との話し合いが始まった頃、心理学研究室では、ホームページを立ち上げるという計画が進行していた。私も、その制作係のメンバーだったので、作り方やUPの仕方など一通り覚えることが出来た。そして、私の中で密かな計画が開始する。当時は「JWののぞき穴」という名で管理していたホームページの立ち上げだった。(現在は閉鎖)
 10月頃、B先生の提案で父親と話し合ってみることにした。他の家族には内緒で帰省し、父親と会った。JWを辞めることに少し決心がついた頃だった。
 話し合うというよりも、私が一方的に話してしまった。どうして私が辞めようと思うようになったのか、彼女がいること、ホームページを作っていること……。父はそれをただうなずき聞いていた。言葉少なに語る父の表情を見ていると、「今まで、やっぱり親父の気持ち、考えたことなかったんだな。」と思えてきた。今なら、少しは親父の気持ちが分かる。気がつけば妻と子供がJWの世界に足を踏み入れていて、反対して反対して、疲れてあきらめて、無関心を装っていた父。予想以上に白くなっていた髪の毛と深い皺−それだけで十分だった。
 11月。母と姉にことの次第を遂に打ち明けることにした。いずれにしても、いつかは言わなければならないことであるし、先延ばしにしておくことのほうが辛くなってきたからだ。表向きは、就職がほぼ決まった(教員採用試験に合格した)ことを報告するため、またリストラされ腐っている父の様子を見るための帰省である。
 帰省し、母に集会に行っていないこと、もうJWになるつもりはないことを打ち明けると、びっくりしていた。父が電話で「うすうす気付いているかも」と言っていたが、それは間違いだったようだ。言葉と内容をを選ばず、矢継ぎ早にいろいろ吐き出してしまった。今までずっと疑問を持ち続けてきたこと、インターネット、JWが「背教文書」と呼ぶ書籍、タバコ、卒論…。
 始めは『だめさ、そんなことしちゃ。』とプンスカした態度を見せていた母だが、次第に表情が曇り、押し黙ったまま別の部屋に行ってしまった。言い方がまずかったと思い、話し合いを続けようと母に近づいたが、口を聞いてくれなかった。その後、姉にも打ち明け、平行線の議論をした。
 姉と話し合って感じたことだが、姉の感覚は1世に近いものであると思う。私のように疑問を感じるときがあったという。しかし、納得のいくまで「個人研究」を徹底的に行ったと言っていた。この「徹底的な個人研究」で、姉は自らをマインド・コントロールし、1世よりのJWになったのだろう。そこが、疑問を感じ続け個人研究したものの、表面上での納得しか得られなかった私との一番の違いであったのではないだろうか。
 今だからこそ思えることだが、協会の出版物のみの研究は、本当の「個人研究」ではないと思う。それはマインド・コントロールである。本当に物事を知りたい、研究したいのなら、様々な立場の意見も聞き入れて考慮すべきである。私がそれに気づけたのは、ゼミ活動やインターネットのおかげだと思う。私がJWを離れるのは、様々な意見・情報を取り入れて「自分で」決定したことだ。自信を持ってそう言える。
 日曜日、実家を出発する朝。朝食をとる私に母が近づいてきた。信仰から離れることは残念だが、仕方のないことだ。しかし、「背教」(この時点で既に「JWの教え」に反した行動を行っているのだが…。)はしないでほしい。−これが母の言い分だ。金曜日の話し合いで、母と姉が「背教」と認識するものと、私の認識が食い違っているなと感じていた。どこからどこまでが「背教」にあたるのか分からないまま、背教行為はしないと半分、嘘をついた。
 バスの中や、自分の部屋に戻ってから、いろいろな思いが交錯し整理できないでいた。

 自分は弱い存在。
 JWに引き戻されるのでは?。
 自分は背教者。嘘をついてしまったこと。
 これからしなければならない会衆との決別。
 帰る場所がない不安。
 父の苦しみ。

 そういった焦り・悩み・アイデンティティの崩壊などの理由から鬱を発症し、現在まで鬱病持ちである。
 転んではタダで起きたくない、今ケリをつけなければならない、という思いから、「エホバの証人の子供として生まれた青年の発達心理」をテーマに卒論を書き上げた(卒論はこちらから)。精神科に通院しており、時には「JWについての情報を一切考えるな」という実質的な卒論執筆ドクターストップがかかったこともあったが、締め切りが迫る中でドクターストップを無視して執筆を続けた。文字通り、血反吐を吐きながら卒論を執筆し、無事卒業した。
 小学校教員としての赴任地が決まり、引っ越すことになった。まったく交わらなくなったM会衆の長老へ向けて挨拶として、またJWへの決別として決別として以下のような文章をFAXした。

親愛なるN兄弟
 ずいぶん長い間、連絡を取ることが出来ず、申し訳ありませんでした。まだ、寒さが続いていますが、いかがお過ごしでしょうか?日々、エホバへ献身的に仕えておられ、充実した日々を送っておられることと思います。
 さて、私は、2001年4月1日より、s町のs小学校への赴任が決まりました。まだ住所など決まっていませんが、これから引っ越しなどでバタバタと忙しくなると思います。
 兄弟やM会衆の皆さんには、K市にいる間、大変お世話になりました。何も恩返しが出来ないまま、s町へ移動するのは残念ですが、お別れを言わなければなりません。
 実は、これまで集会に出席していなかったのは、忙しかったからという理由だけでなく、自らの意志によるものです。昨年、5月頃、インターネット上のあるホームページを閲覧し、ものみの塔に対して疑問を持ちました。と言うよりも、ずっと引きずっていた疑問が表面化しました。
下記はそのホームページのURLです。
エホバの証人の子供たちのHome Page
http://www.alles.or.jp/~philip/jw%20child.html
 抱いた疑問とは、ものみの塔の組織が伝える教えは真の宗教なのか、という問題に対する疑問です。
 昨年からあらゆるサイトや書籍、人の意見などの情報を集め、考慮した結果、私にはものみの塔が真の宗教だとは考えられなくなりました。そして、自分がエホバの証人にならないと結論いたしました。この過程は、私にとっては「信じていたものが全て覆される」ことだったので辛い出来事でした。
 エホバの証人問題の本質は、第1に「組織主義」を行っていること(「組織崇拝」と言っても過言では無いと思います)、第2に巧妙な「カルト隠し」をしていることだと感じています。一般のキリスト教の牧師などエホバの組織に反対する立場の人だけでなく、かつて統治体の成員だった
レイモンド・フランズ氏(現在は排斥されています)も、彼の著作「良心の危機」の中で、そのことを正確に描き出しています。私には、彼の主張はどうしてもサタンに操られた背教者だとは思えません。組織よりも神に仕えることを選んだのだとしか考えられません。
 私は卒業論文の中で、エホバの証人の2世が抱える問題を扱いました。表題は「エホバの証人の子供たちにおける価値観とアイデンティティの形成」です。エホバの証人となるべく行われる宗教教育、体罰、狭められた価値観、受動的な信仰、その他様々な問題を扱ううち、ものみの塔が真の宗教ではないという思いがよりいっそう増しました。もし、この論文をお読みになりたいのであれば、ご連絡願います。いつでも印刷する用意が出来ています。
 現在(2001年3月当時)、私は「JWののぞき穴」というホームページを運営しています。2世として育った経験や卒業論文の一部などを掲載しています。このホームページには、現役の証人、2世、元証人、2世とお付き合いしている若者、エホバの証人問題を扱う牧師、私の恋人など、本当に様々な人が訪れています。これらの人たちと非常に有意義な交流が出来ていると思います。URLを書いておきますので、ご覧になりたければどうぞ。ただし、組織に忠実な敬虔なエホバの証人として歩んでおられたいなら、「目ざめよ!」1997年7月22日号などの協会の提案をご覧になった上で考慮して下さい。
http://sapporo.cool.ne.jp/*****/(現在は、閉鎖)
 以上の理由から、これまで集会に行くことを控えていましたし、今後も出席する意志もありません。エホバの証人として生きることを拒否いたします。私は、正式な証人ではなく「研究生」だったので、断絶や排斥といった処分は取られないと思います。しかし、「もしかしたらいつか、エホバの道に戻って来るのでは?」という期待は抱かないで頂きたいと思います。繰り返しますが、私はエホバの証人として生きることを拒否しました。
 私自身はエホバの証人となることを拒みましたが、信仰の自由は認めたいと思います。自らエホバの証人となった方たちに対して反対する意志は持っていません。神に仕え、幸福な生活を送っていただきたいと考えています。ただ、私がその道から逸れる自由も与えていただきたいだけなのです。
 昨年11月に、家族にはこの旨を伝えております。これは私にとっても大きなストレスだったため、そのショックから抑鬱状態になり、現在でも精神科へ通院しています。最近では、かなり落ち着いた状態になってきました
 兄弟に伝えることはこれで全てです。兄弟は長老として、私のところへ牧羊訪問に赴く必要を感じられると思います。しかし、私の意志は決定済みのことです。私がエホバの証人になるように意志が変わることはあり得ないと思っていただきたいと思います。社会的に見ても、発達心理的に見ても、聖書的に見ても、エホバの証人になることを拒む理由があります。
 これをご覧になったら、ぜひご連絡下さい。この意志がいかに堅いものか示すことが出来ると思います。もし話し合うことがあれば、落ち着いて、感情的にならずに語り合いたいと心から願っています。

 
 このFAXを送っても会衆からの反応は何も無かった。
 そして、すぐに現在の居住地である小学校の赴任地に引っ越した。


教師時代

 ここより先は、公務員の守秘義務があるため、それに触れないようになるべく簡潔に記載していく。

 1年目
  6学年付き(副担任のような立場)に配属される。社会人1年生、教師1年生ということで、常に真っ暗闇の中を突っ走るような不安感との闘いの毎日だった。

 2年目
  3年生の担任になる。4月に大学時代から交際していた例の彼女と結婚する。現役JWの母親の手前、また二人とも派手なイベントは苦手ということもあり、挙式や披露宴は行わなかった。
  8月に鬱が悪化し、休職。まもなく3ヶ月に及ぶ入院生活が始まる。

 3年目
  復職訓練という名目で職場に復帰する。特別支援学級の手伝いや5年生の理科を担当する。

 4年目
  依然として復職訓練が続く。業務内容は、障がいを持った児童の補助などだった。これはかなりの試行錯誤の連続で、それがストレスとなりまた鬱が悪化するが、復職訓練は続いた。
  4月4日、長女が誕生する。

 5年目
  離婚する。
  5月頃、復職できない旨を言い渡される。それを機に、しばらく引きこもる。
  7月から、塾などを狙って就職活動をするも、見事に全滅する。再度、鬱悪化。気持ちを切り替えて、休職の期限いっぱいまで治療に専念しよう(要は何もせず遊んで暮らそう、ということ)と思い、限りなくニートに近い生活を送る。


現在

 2006年8月、休職の期限が過ぎ、免職となる。両親のいる実家に引っ越し、正真正銘のニート生活を送る。

 2007年9月、実家近くの書店でバイトを始め、ニートからフリーターへちょっと前進。

 2011年3月、市教育委員会より臨時教員として採用され、小学校へ着任。1ヶ月の期限付きながら教職への復帰となる。

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